そう、誰もが棄てた記憶の片鱗。

どことなくねむぢえす

中庸はいい事だ

大学では心理学を専攻していて、何故そこを選んだかと言ったら空気としては非常に浮ついた世の中の流行りごとに乗っかってしまった感が満載であった。だから心理学ですと人前で申告すると何となく笑っちゃうし照れちゃうしまあ大した事もしてないよとのたまってしまって、今でもその癖は直らない。どうも昔から、自分で選んだものが恥ずかしくて仕方ないらしい。
心理学を選んだのは分からないものを知りたかったからであって、決して流行のドラマに影響されたわけではないし、高校の担任がスピリチュアルな方だったので未だに親にはあの先生の影響でしょと言われるけれども全く以て的外れているし、大体心理とスピリチュアルは何の関係もない。そして流行りに乗じた犯罪心理学も人を操る方法もコールドリーディングも大して興味は無かった。どうして自分はこんなに駄目でいけないのかを知りたかった。これは自分探しの旅でとてもはずい。仕方ない。

学生時代よりずっと前も、もっと後も、自ら選んだものが恥ずかしくてうまく真意を説明できないという事が多々あった。自分の中では確固と筋道立った理由が存在し理々論々としているにも関わらず、それを外側に取り出して誰かに目の前に置くと突然よく見えなくなるので、しばしば湾曲して伝わり是正しないまま事は進む。是正される必要は無いと思っていたからそのまま話を進ませていた、是正されたら自分が真面目にそれを選んだことが相手に伝わってしまうからである。本当に昔から、自分で選んだものが恥ずかしくて仕方ない。

もういい年ではあるし、それが宜しくないとは分かっているので、根本的な性格や考え方は変わらないにしても行動くらいは普通の人でありたいと願ってそこにフィーチャーして己を是正して来た。よく悩み相談で自分の性格を変えたいなんて話があるけれどもそんなものは97%くらいは不可能である。余程専門家に金を払って時間を掛けて治療していくかもしくは半日ほど拷問でも受ければ可能性は残されているので3%ほどのふり幅をそこへ置いておきたい。けれども日常を営みながらまったく別の人間になるというのは不可能だしそれこそゼロであっていい。

予想ではあるが、わたしは変わり者である。普通や中庸に憧れてそれを目指しているのは決してポーズではない。一見そう見えないのならばそれはわたしの普通への憧れと努力の賜物であると理解して欲しい。そして突き抜けて目立つ天才的な変わり者ではなく、誰の目にも留まらず異端として見なかった事になり騒ぎ立てる事も無くそっと無関心へと移行し存在がなかった事になるほうの変わり者である。変人と呼ばれて喜ばしい型の変わり者ではない、人はどんどん離れていくし、誰かが気に留めるなら全体を見た時の一部としてである、そういうやつな。根底にそれを携えた上に社交の家を建てたがそれは誰かの模倣である。わたしは随分と知人から人間の喋り方を模倣させて頂いた。

自分を評する時、根拠のない漠然とした不安のみがソースである場合はそれほど強く断言しない。だから変わり者であると考えている根拠はある。大学でやたら人気があってその年度殆どの学生が取ったコラージュ療法という講義があって、そこには100人以上の志半ばの若者がおり、その中には明確に自分探しをしている者や明確に職を目指す者、ぼんやりメンヘラ気質な者もいた。わたしははつらつとした行動派で真面目に講義を受けノートは貸す方、サークルもがんばるいい子だった、それを学んだから学んだ通りのなりたいものの歩み方を辿っていた。ある時学生が作成したコラージュを壇上でひとつひとつ紹介する事になり、講師は「これは講義だから安易な診断はしません」と宣言し、不思議ちゃんの不思議になりたい願望をちくちくと刺す以外はコラージュ自体の感想しか述べなかった。100人以上の学生の作品をだ。一言も診断めいた事は口にしなかった、自分の作品以外では。

彼はわたしの貼り付けた人物を指差して対人恐怖症の気があると言った。指摘されてはじめてそういえばそうだなあと気づいた。多少絵も描けばデザインにも通じているからコラージュなんてものは本当に楽しく作成したのだ。だから当たり前に現れたその特徴に気づかなかった。美しく構図に収まっているがそこには人の目線に怯える人の典型的なサインばかりだった。自分としては割とよく出来た社交の家を建てたつもりだったので、暫くの間ショックを受け、そして未だにそれを引き摺っている。自分はちょっと変わり者ではなく本当に変わり者なのだなあと専門家に指摘されて確認してしまったから、以降はその話を知人などに時たましている。そしてわたしは変わり者なのだよと宣言する。恥ずかしくない、わたしが選んだものではないから。
100人中1人だけ存在した変わり者。それだけでも絶望的である。99人が指摘されなかったものをわたしだけ持っている。実際は130人ほど在籍していた気もするけどそこはまあいい。そんな変わり者の選んだ物は世間と照らし合わせて本当に正しいのだろうか、いつもそれがあやふやである。世間なんか関係ないと思うじゃろ?そう思うのは君がある程度世間になりふりを赦されているからだろう。世間と自分どちらかに特化したい訳ではなく折り合いをつけたいのだ。そろそろ頃合も宜しいだろうと顔を上げるとあの時のコラージュが確りと見える、まだだった。

わたしは他者に語り掛けない。常に自分と対話をしている。変わり者とは特別ではない。排除である。余り自分以外の変わり者を見た事がないけれど、わたし以外の変わり者もきっと排除されていて目に触れないのだろう。最近1人だけ世間の中に紛れた変わり者とお知り合いになる機会があったが、彼はきっと自分が99人とは違った1人であるという自覚はなさそうである。ないからこそ抱く悩みもあるだろうけれども、わたしは自覚のある悩みを抱えてしまった。だからこそ普通を探して変わり者を覆うように家を建てた。専門家がきまぐれに口滑らせただけだという事も分かっている、それでも口滑るようなあからさまな対人恐怖が滲みあやふやな言葉を吐いてしまったという事実だけはそこに残る。

言っておくがわたしは誰も怖くない。対人恐怖という言葉から連想されるような弱弱しい言動も引っ込み思案さもなければ行動力は人一倍強い、喋りはつたないが恐怖で動けない・身体が動かない・発汗・ふるえなどあらかた予想の付きそうな人が怖いという項目は一切持ち揃えてはいない。何か別の言葉でもあればそれに置き換えたいところだけれどもどうだろうか、ゆるやかに定められた人としての基準に達していない事への恐怖関心、変わり者である自覚と罪の意識。やっぱり内容的には対人恐怖で合ってるな、うむ。ここまで深くくぐもった意識があるならば医者の門でも叩いて良いのだろうけれども、生憎社交的なのだ。ここでまた先日書き記した「なにものにも認められない」診断書の出ない眩暈の如く、そうではないとカテゴライズから外されるのだろう。世間様にはもっと表層に問題を露出させた変わり者がたくさんいて、その中の幾許かは変わり者の域を越えて要治療として世間に認められている。だったら医者にでも何でも行けばそれなりの地位と名前を貰えるから行動力に任せて行って来いと言う者もいるだろうが、眩暈が酷かった頃に精神科も心療科も神経内科も経験済みである。ある医者は見るなり鬱だと言ったが全く以て誤診だった、ある医者は何も言わぬので対人恐怖の気があると申告したらその通りになった、欲しているのはそういう事ではないだろう。腹痛の原因はウィルスか盲腸か、今日は月曜日なのか、夏は暑いのか、そういう事が聞きたいのだ。そしてそんな明確な答えをくれる人間などいない事も分かってる。唯一貰った一言がわたしを世間と断絶した変わり者だと何気なく指摘した言葉のみという事だけなのだ。だから自分が自分に発する言葉は確固たるのだが、外に発する事が恥ずかしくて仕方がない。